①法華経は偽経、創作です&(三浦春馬さん暗殺と創価学会)

もと学会員だったわたしの独り言

 

 

いきなり妙な本の画像から失礼します

 

この法華経の本はいわゆるお経ですね、その法華経の解説本になっています

 

わたしも念のために読んでみました・・が、トンチンカンな内容でした

 

法華経は大乗経典ですが、大乗経典が実は偽物、(偽経)だったということは今や常識です

 

法華経といえば日蓮創価学会です、信者の方々はこのことを知らないだろうし真実を知ったところで受け入れないでしょうが・・

 

○○のひとつ覚えで毎日朝晩欠かさず南無妙法連下下下経と唱えて、方便品などをただただ唱えて現世利益を求めて、来世成仏を願って、

 

アホかいな!

 

日蓮関係の人間に言わせれば、わたしのような人間を「一闡提、いっせんだい」と言うそうです

一闡提(いっせんだい、梵: Icchantika、蔵: 'dod chen pa、log sred can)仏法を信じることなく誹謗する者で、成仏する因縁を持たない者をいう。信不具足、断善根、極欲などと訳す。

これはカルトの常套手段です、必ず「救いと脅し」がセットになってますね、恐怖で支配する、コロナワクチンも同じ手法です

 

わたしの場合は原始仏教(伝統的、保守的仏教)派でしてお釈迦さまの説いた教えは日々聞いたり読んだりして忘れないように心がけています

 

他にバガバットギーターも少しだけ読んだりしてますがなかなか解釈が難しいですが、トンチンカンな偽経法華経よりは遥かに理解できます

 

学者の方々も大乗経典は偽物と言っています

 

***以下に故中村元先生の解説を載せます、少し長いですが大乗経典が何故できたのかがよく分かります(これはYouTubeの動画を文字起こししました)***

 

中村元

 

まず、大乗仏教が起こりましたその時代的背景を考えてみる事に致します。

大乗仏教が現れ出たのは東洋史のほうで有名なカニシカ王の時代で御座います。その時代までは仏教の色々な学派、宗派が盛んに興ったのでありますが、中でも特に社会的勢力があったのは伝統的、保守的仏教の内でも特に説一切有部(せついっさいうぶ)と呼ばれる学派であります。説一切有部というのは何を説いたかと申しますとですね、ちょっと説明しにくいんですが、人間存在を構成している色々な要素がある、その一切の要素の型とでも申しますか、型とか形相とかいうものが、全て実在する物であると、言うことを説いたのです。だから説一切有部、一切有りと説く派と、名づけられますね。で、この学派は北インドから北部パキスタン更に中央アジアシルクロードにかけて非常な勢力が有りました。これらの学派の僧侶たちは人里離れた山奥の立派な寺院で瞑想と座禅を行っております。そして教理研究に没頭いたしました。この教理研究のことを、もとの言葉で「アビダールマ」と申します。「ダールマ」というのは法と訳しますが仏法の法で仏様の教えですね。「アビ」というのはそれに対してという意味でして、つまり教えに対して色々考究し研究すると、いう意味です。経義の学問です。このような生活をして経義の研究に打ち込んでおりますと、当然その僧侶たちは民衆から離れて人々のことをあまり想わなくなる。人々の悩みを共にするという態度からは遠くなりました。そうして民衆を見下す、見下ろす、独善的な傾向になったのであります。「これでいいのかしら、これでは仏教の本当の精神が失われてしまうのではないが」という反省や批判も他方では起こりました。特に説一切有部に対する一種の宗教改革として新しい理想的精神を持った運動が民衆の間から起こりました。その運動は「民衆と共に苦楽を共にしよう」と、そう望んでいたのであります。で特に民衆に共感を及ぼしたのは説教師たちですね、つまりお釈迦様の教えを受けて、それを人々に説きました。この人々は主として(スプーパプと呼ばれます大きな塚を崇拝する人々)の間で尊敬されていたのでありますが、そういう人々の間から新たに起こってきました運動が、それが「大乗仏教」であります。この大乗仏教というものは利他業、他人を利する行い、他人の為になるように努めるという行いを強調しました。これは人々に対する慈悲の精神に基づくものでありまして、人々に対して共感し同情を示す心の力でありました。苦しんでいる民衆を救うという事が一つの大きな目標となっていたのであります。

 

大乗仏教は何時頃から興ったかということが問題になりますが、民衆の間からこの宗教運動が現れ出ましたのは、だいたいカニシカ王の時代、つまり西暦紀元2世紀を中心としてその前後の時代であります。それから今日に至るまで、まぁ2千年近く経っておりますが、仏教の世界には大まかに言って、この新たに興った大乗仏教とそれからそれ以前からある伝統的、保守的な仏教と、その二つがずっと存続して来ているのであります。で大乗仏教の原名は(マハーヤーナ)と申します。(マハー)というのは大きなと言う意味です。(ヤーナ)というのは乗り物という意味です。「この教えは大きな乗り物」であると言うのです。つまり多くの人々を乗せて彼岸、彼方の理想の世界へ連れて行って救う事が出来ると、そういう立場を標榜(ひょうぼう、とは善行をほめたたえ、その事実を記した札を立てて世に示すこと)しておりました、で「この理想は崇高な大きなものである」と、いうことを申します。これに対して伝統的、保守的仏教はキーナヤーナ呼ばれましたが、それは貶めた(おとしめた)名前なんです。キーナというのは、捨てられた!あるいは遅れている!という意味です。それは大乗仏教の側から投げかけた呼び名なんですね、貶め言った呼び名なんです。しかし当時の社会全体としては伝統的諸派の方が非常にプライドを持っていました。また支配的でありました。そして新しくおこった大乗仏教なるものは、彼らからは異端として無視されていました。

 

ここで小乗仏教と比較しながら大乗仏教のお話しを致しましょう。

第一に伝統的、保守的仏教で伝えている「聖典」というものは古い物でありまして、歴史的人物としてのゴータマブッダ、つまり釈尊、お釈迦さまの教えに近いものを忠実に伝えております。ところがこれに対して大乗仏教の「経典」というものは、「新しい指導者たちが創作したものです。」ここではゴータマブッダ釈尊は歴的人格というよりは理想的な存在、神話的な存在として称えられております。

 

第二に小乗仏教という保守的な方の仏教は国王、藩侯、殿様たちですね、それから資産家の後援を受けて社会的な地位を築いておりました。これに対して大乗仏教は民衆の間から盛り上がった運動でありまして、大乗仏教の教団は荘園(しょうえん、領地)を持っておりませんでした。伝統的、保守的仏教は荘園を持っていました。まぁ日本でも同じでしたけれども大きな寺院というものは権力者から寄付されて土地を持っていました。その土地の収穫、上がりによって教団が保たれていたんですね。ところが大乗仏教はそういう社会的基盤としての荘園を持っておりませんでした。むしろもっぱら民衆の純粋な信仰に基づいていたのです。大乗経典の一つであります法華経に出ておりますが、「本当の修行者は国王、大臣に近づくなかれ!」といった覚真をもって信仰が純粋、清らかであることを誇っていたのです。また、他の点から考えてみますと、この伝統的、保守的仏教は人里離れた巨大な僧院で教理の研究に没頭していました。現在パキスタンの北部の丘の上には巨大な僧院の遺跡が残っていますが、そういう所で彼らは瞑想の生活を送り研究に従事していたのであります。ところがこれに反して新しく民衆の側から生まれました大乗仏教というものは、民衆と共に、人々と共にあるものであり、そういう立場の宗教運動でありましたから、慈悲の精神に基づいて利他行、他人の為になることを行うという、そういう精神を強調いたしました。大乗仏教は慈悲の精神というものを強調するのですが、この慈悲という言葉を説明いたしますと「慈」は慈しみ(いつくしみ)という意味です。もとの言葉で申しますとマイトゥリーと言うんですが、それはミトラとも、友人という言葉から作られた名称でありまして、真実の友情、真心のこもった友を思う心という意味です。これに対して慈悲の悲はもとの言葉でカルナーと申しますが、それは悲しみ、悲しみを共にするという意味でありまして従ってそれは実質的には哀れみとか同情ともなるのであります。この二つのマイトゥリーとカルナー、つまり慈と悲は基本的には同じ気持ちであります。その両方が合わさって慈悲と言われております。で、慈悲というのは仏教の心構えの源であると考えられております。で、その精神としては漢訳仏典の言葉では「自未得度先度他、じみとくどせんどた」ともうまして「自ら未だ渡らざるに他人を渡す」人生の旅路を歩いて行きます、そうすると前に川の流れが有るのを知る、それにぶつかる、わけでありますが、その場合に自分がその流れを渡り終わる前に、まず他人を彼方の岸へ渡してやると、自ら未だ渡らざるにまず他人を渡すという、そういう趣旨であります。すなわち自分も今苦しんでいるけれども、また他人も苦しんでいる、で、自分が苦しみから脱する前に他人を彼岸の彼方の世界へ連れて行こうというのです。この利他行、他人の為になることをするというその業を実践する人を「ボーディーサットバ」と申します。「ボーディー」というのは悟りという意味で「サットバ」というのは人のことです。つまり悟りを目指す人という意味ですね。これを漢訳の仏典では音をうつして菩薩と訳してそのように書いております。このボーディーサットバ、菩薩というのは元は悟りを開く前のゴータマブッダ、修行中の釈尊のことを言ったのでありますが、この時代には人々のために利他行を行う人、他人の為を図って行動する人、それを指して言うようになりました。このボーディーサットバ市場サイドの請願、誓いを立てました。人々を救おうという誓い、それは哀れみ、同情に基づく願いです。その究極の目標は仏様の出世、世に現れ出でたもう、その姿であります。仏さまが人々を救うために色々な姿になってこの世に現れることであります。このようなボーディーサットバの実践が「大乗仏教の理想」なのであります。ところでこのような精神に基づいて菩薩への帰依と、仏菩薩側からの救済という観念が生まれ出ました。つまり人々の為になるようにする、人々を救うといっても、これ現実に生きてる我々人間はなかなか実行しがたいことですね。一般の人々はどうも実行しがたい、そこで一般の人々はむしろ仏菩薩にすがって、帰依して、それによって救われる。そうしてその精神を受けて実践すると、そのように考えました。こういう実践の立場に立ちますと仏菩薩に対する純粋の信仰を説くようになりました。ですから仏教の歴史について考えてみますと、「初めは修行者が自分で修行して悟りを開くそして自分を救えるのは自分だけである」という、そういう心構えでありました。ところが時代の経過と共に救って下さる方は他にいる、そういう考えになりました。西暦紀元後になりますと大丈仏教ではその傾向が著しくなってきました。そこでこのように考えたのであります、一般の世の中の人々は必ずしも昔の修行者のような難しい生活を行うのは不可能ですから、そこで世俗の生活の内に在りながら仏様の慈悲によって救われる、仏や菩薩に帰依することによって富や幸せが得られる、無病息災になることが出来る、と言って現世の利益が得られる、ということを目指しそのように説くようになりました。そのような信仰心の由来するところとして、信仰の対象となった仏菩薩の数は多くなりました。東方の世界にはアシュク仏がまします、西のほう西方には阿弥陀仏がまします、その他、薬師如来も拝まれました、また未来の仏である弥勒菩薩、人々を救う観世音菩薩、それから文殊菩薩普賢菩薩、などが熱心な信仰を受けるようになりました。これらの菩薩は衆生を救うためにいろいろの身を現し、衆生に対する慈悲の故に自らは涅槃に入る事はない、とそういうぐあいに言われる修行を行うことに努めたのであります。そうして仏菩薩に対する信仰が高まりますと、その姿を具体的な形で示し、それを崇拝したいという気持ちが起こりました。そこで多くの仏像や菩薩像が作られました。またダラニ、インドの言葉ではダーラニーと申しますが、それは教化の重要な要素として取り上げられました。ダーラニーというのはサンスクリット語で言語を尋ねましと、保つものという意味であります。ダーラニー、わが国ではダラニ、は短い文句ですが、それを唱えたならば願いが達せられるというものであります。さらに経典を書き写す、そうしたならば功徳が得られると、そのように説かれるようになりました。経典が大切なことが盛んに言われるようになったのであります。インドに話を戻しますと経典、お経はアショーカ王の時代からもうすでに唱えられていました。つまり西暦紀元前3世紀からですね。そのころは経典の文句は文字に書かれないで暗唱されていました。それがカニシカ王の時代になりますと、数多く集められて仏教の聖典として経典が編纂されました。伝統的、保守的仏教ではすでに頼りとする経典が出来上がっていたのでありますが、大乗仏教でも作られるようになりました。この傾向は急激に高まりまして、大乗仏教には多くの経典が作られました。大乗仏教の経典と称するものが多数作られるようになったのであります。それらの経典、体制下し組織化するのは大変難しいのですが、歴史的に見ますと、最初に現れ出たのは般若経典であります。般若経典は空ということを教えています。般若とは何か申しますと、知恵のことをサンスクリット語でプラジニヤーと申します、それが俗語では訛りましてパンニャーとなる、そのパンニャーを般若という漢字でうつしたのですね。もともとパンニャーというのは哲学的な高次の知恵でありますて事柄の真相を見抜く見通す知恵という意味です。このパンニャー知恵を述べている経典は多数ありまして成立年代もいろいろ考えられていますが、般若経典多数あるそれらを修正したものが大般若波羅蜜多経600巻であります。

 

**中村元先生は以上で~す**************************

**下はあるブログから参照です************************

 

法華経が創作経典だということは創価大学の菅野博史先生も認めています。

法華経釈尊の臨終直前の説法という設定であるから、霊鷲山(りょうじゅせん)を説法の場所として選んだのである。もちろん、ここに本教に列挙されるような膨大な数の人が集まれるはずがないので、大乗経典が創作であることを自ら明かしているともいえよう」

 

 

②{(法華経入門)(法華経の出現)大蔵出版菅野博史創価大学教授より

「原始経典(小乗経典)が原則的には歴史上の釈尊(ゴータマ・ブッダ。紀元前5世紀~4世紀、または6世紀~5世紀)によって伝承され、弟子たちによって伝承されたものであるのに対して、大乗経典の成立の事情は大いに異なっています。というのは、大乗経典には伝承の部分が不明であり、有り体にいえば、新しい仏教運動の担い手たちの創作にかかると推定されます。このことは大乗非仏説といわれているもので、日本では富永仲基や平田篤胤によって早くも江戸時代に主張されたことでしたが、明治中期に改めてヨーロッパの仏教学から学んだ歴史歴知識として、現在では広く認められる考えです」

 

**は~疲れた~*******************************

 

創価を支えている学会員も同罪

 

創価が何をしているか

 

え!そんな事してたの

 

学会員は創価と同じ業を持った人々なのだから来世は等しく地獄に生まれるであろう

 

( ̄∇ ̄;)ハッ

 

”思い立ったが吉日”

 

退会するのはいつ?

 

 

 

 

 

 

 

**以下につばさの党、黒川敦彦さんYouTube貼り付けます************

 

youtu.be

創価学会の影が!三浦春馬不審死、エージェント有吉弘行?【アミューズ、TBS、安藤隆春、ツタヤ、ニトリ】 - YouTube

 

知らなかったでは済まされません

 

カルマは必ず本人に返ってきます

 

ハイ、信じるか信じないかは あ・な・た 次第です

 

 またね バイバイ

 

木村ひさしが朝鮮人だいう噂があるようです。この噂に蓋をするかのように、(両親の情報が無いから日本人だと!)ふ〜んますます怪しい、芸能界、政界は朝鮮人だらけですがね